カルチャアの雑日記

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クィア批評の逃走線 千葉雅也『デッドライン』

 千葉雅也のデビュー小説『デッドライン』は、2019年に野間文芸新人賞を受賞し、芥川賞候補ともなった話題作である。東京大学大学院を修了後、ジル・ドゥルーズをはじめとするフランス現代思想の研究者として教鞭を振るっていた千葉は、今までにも何冊かの哲学書を執筆してきたが、小説としては本作が初めてである。

 ゲイである主人公の、大学院の修士論文のデッドラインまでの日々を描いた本作は、自身もゲイである作者の反映でもあり、また彼の研究している哲学を通して、同性愛者の抱える葛藤からの解放を試みているという点で非常に興味深い作品となっている。

 

 本レポートでは、『デッドライン』という作品の特徴を、精神分析クィア批評という二つのアプローチから読解していく。


 主人公の「僕」は、この物語の全体を通して修士論文を書き進めているが、そのテーマがこの物語自体と大きく関わっているところが重要だ。「僕」の専門は筆者である千葉同様、フランス現代思想である。中でも、ポスト構造主義と呼ばれる部類に入るドゥルーズガタリの「逃走線」や「生成変化」という概念は、「僕」の研究テーマであると同時に、物語を読解する上でも重要になってくるので、その点に注目しながら論を展開していきたい。


1. 従来の価値観への違和感

 既に述べた通り、主人公の「僕」は同性愛者であり、彼にとって「普通であること、男子であること」は「ずっと巨大な謎」だった 。この違和感が、彼をポスト構造主義の思想家たちへの関心へと導いている。なぜなら、閉ざされた構造に抵抗し、そこからの解放を求めるポスト構造主義の考え方は、「普通」の男女という枠組みを壊し、同性愛者としての彼を「巨大な謎」から解放し得るものであるからだ。


 この物語がハッテン場の場面から始まっていることも象徴的である。読者は冒頭から、従来の構造の枠からは外れた視点から物語を読むことを期待される。物語を読み進めていくと、中盤以降で、父親からゲイであることを周囲の人にカムアウトしていることを咎められる場面が現われるが、冒頭から「僕」と同じ目線で読み進めてきた読者は、ここで「僕」と同じような違和感を抱くようになるだろう。読者は「僕」にとっての「普通」の感覚を通して、逆説的に、現代社会に浸透した同性愛への嫌悪感に気付くことができる。


 この場面をもう少し詳しく見てみたい。母親の元へ高校の同級生の母親から、「お宅の息子さんゲイなんですって」と電話で言われるが、「僕」の母親はそれに対し、「あなたはそういうことも平気かもしれませんが、私はそういう女じゃないんです」と言う 。「僕」はここから、母においての女性という立場が、他人からぶしつけに「ゲイ」とか言われて平気でない、か弱い立場の存在であると知る。


 この「か弱い女性」としての母を守るために息子を咎める立場として、父は従来のジェンダー観の象徴として描かれていることが分かる。それに対して「僕」が強く反抗することで、両親のような構造への「僕」の違和感が読み取れる。それに加えて、「僕」の同級生の母親を強い口調で非難する母と、「僕」を咎める父の姿は、ホモソーシャルな共同体を守ろうとするように見える。同級生の母親はホモソーシャルな構造を危うくする「悪女」の立場であり、「僕」はホモセクシュアリティと自己の区別を危うくする異物とみなされている。同性愛者である「僕」の目線から語られる物語の中で、両親は現代社会に浸透する思想の代表のように描かれているのだ。


 もう一つ、「僕」の抱く抵抗感の兆候が読み取れる場面がある。「僕」は行きつけのドトールで、最近知り合った純平という男とダンスの話をする。ダンスの練習中の純平はニューヨークで活躍する有名な黒人ダンサーのビデオに衝撃を受け、「あれが本物だね、やっぱ日本人はダメだわ。ぜんぜん動けてない」コメントする。それに対し「僕」は、「どっちが本物ってことじゃない」と反論し、アメリカにはアメリカ流の、日本には日本流のものがあり、もっと言えば「個人個人で違いがある」と言う 。

 

 それでも純平は引き下がらずに二人での言い合いは続いていくのだが、純平に対してムキになって反論する「僕」は、「アメリカが本物」という構造が成立してしまうことへの危機感から抵抗しているのではないだろうか。なぜなら、何かが本物であるという構造が成り立ってしまうことは、普通の男女の枠組みを本物と考える構造を崩せないことと同義だからだ。純平が来る前に「僕」が『千のプラトー』を読んでいたことからも、「僕」が何とかして枠組みの解体を試みていることが読み取れる。


2. 男になることへの憧れ

 「僕」はドゥルーズガタリの「生成変化」という概念を用いて、自分ではない別のものに「なる」ことで従来の構造を解体することを試みている。『千のプラトー』では動物や女性が、人間や男性に対するマイノリティという位置づけで語られており、「僕」も動物や女性になることを望むが、論文の構想を練るうちに自分の中に秘められた欲望へと気付く。それは、前章でも述べたような、普通という価値観への抵抗感に相反する、「普通の男に見えるイメージ」への欲望である。それは、しばしば現れる彼の一人語りからも明らかである。

 

  僕は、自分には欠けている「普通の男性性」に憧れていた。おそらくはその欠如感が、僕を動物というテーマへと導いている。(中略)荒々しい男たちに惹かれる。ノンケのあの雑さ。すべてをぶった切っていく速度の乱暴さ。それは確かに支配者の特徴だ。僕はそういう連中の手前に立っていて、いや、その手前で勃っていて、あの速度で抱かれたいのだ。批判されてしかるべき粗暴な男を愚かにも愛してしまう女のように。僕の場合、潜在的に女性になっていて、動物的男性に愛されたいのだが、だがまた、僕自身がその動物的男性のようになりたい、という欲望がある……

 

 従来の価値観にとって、まさに男性は支配者であり、その構造こそ「僕」が違和感を抱く根本でもある。にもかかわらず、彼の中にはその男性性への憧れとして、動物になることを欲望するという矛盾がある。彼は『千のプラトー』で書かれているマイノリティとしての動物を、その荒々しさや予測不可能な動きなどから普通の男性と重ねて解釈している。しかし、動物になることへの憧れは、同時に従来の価値観への服従とも言えるため、その葛藤に彼は揺れているのだ。


 彼が直接語る場面の他にも、男性性への無意識の欲望を読み取ることができる。例えば、上に引用した箇所のような自分語りや「僕」という言葉の多さ──物語全体を通しても、「僕」という一人称が全面的に押し出されている──からも、主人公が「僕」=男性になることを無意識に欲望していると読めるのではないだろうか。


 その兆候は彼の習慣にも見られる。彼はドトールでジャーマンドックを食べることが習慣になっていて、作中で何度かその場面が登場する。ジャーマンドックが、ハッテン場や「僕」の部屋での性行為でしばしば現れる男性器のメタファーと捉えれば、それを食べるという行為は、男性性を自分の中に取り込みたいという彼の無意識の欲望と読むことができるのではないだろうか。


 彼の中では、構造主義的な従来の価値観から抜け出したいという欲望と、それと相反する従来の価値観への服従というマゾヒズム的な欲望の二つが互いにせめぎ合っている。「僕」が論文をなかなか書き進めることができないのも、この二つの欲望を自分の中でうまく説明することができないのが理由である。これは、何かを規定しきると構造を作ることになってしまうというジレンマに陥るポスト構造主義の思想そのものとも言えるのではないだろうか。


3.「僕」にとっての逃走線

 『千のプラトー』に登場する「逃走線」は、構造主義の閉ざされた思想から抜け出すための重要な概念である。逃走線を引く、というのは具体的には、閉ざされた世界の円循環の中から、その部分に収まらない差異や他者を考えることで、その世界から逃がすということだ。


 では、「僕」は自分の性認識に対し、最終的にどのように逃走線を引いたのか。それは、従来の性器による男女の分離を排除し、「越えられない距離を挟んで相手を対象として愛する」ことである。「僕」は過去に唯一好きになった女性と女性器への感じ方から、挿入するという意識ではなく、彼女の身体と一体化するという意味で「彼女になる」という逃走線を引く。この、性器の関係性を考えなおすという方法は、クィア批評が試みた、性の中心化の解体と一致している。


 逃走線を望む「僕」の考え方は、彼の家のある場所とも関連している。彼の家は杉並区の久我山にあり、彼と仲の良い友人のKは池袋に住んでいる。「僕」がKの家に向かうまでの道のりは位置関係とともに詳細に書かれている。

 

  車で久我山から池袋に行くというのは、東京という多重の円環を内側へ入っていくことだ。環八、環七と二つの環状線を通り、最後には池袋の西にある要町で三つ目の環状線、環六=山手通りに至る。

 

 環状線が「線」であることや、Kが「僕」たち仲間の女性と付き合うことになる「ノンケ」の男性であることからも、彼が、従来の男女関係=円環から離れた場所へ逃走線を引いたようなところに住んでいることは重要だ。物語の終盤で彼は引っ越すが、また同じ久我山の周辺に住むことになり、やはり円環から離れた逃走線としての場所を望んでいると分かる。最後に述べられる「僕は線になる」という決意、つまり精神的な位置関係と物理的な位置関係が一致しているのだ。


 以上をまとめると、『デッドライン』は、単に同性愛者としての現代社会への違和感を訴えるだけにとどまらず、同性愛者の内側の葛藤を表すことで、精神的な面での苦痛や難しさを哲学的思想で乗り越えようとすることの難しさを描いている。「逃走線」と「生成変化」という二つの概念から従来の価値観の解体を試みようとしているが、しかし、結局論文はデッドラインには間に合わなかった。この間に合わなさは、「結論に辿りつかない」ことと同義だが、作者の千葉はこの作品を通して何か答えを出そうとしたのではなく、まだ考え続けるべき課題として、小説を通して同性愛の問題を提示したのではないだろうか。

 

 そう思うと、私たちはこの作品を読んだ後から、従来の価値観を解体するような批評の方法を引き続き考え続ける必要があると言える。

 


参考文献

千葉雅也『デッドライン』(新潮社、2019)
大橋洋一『現代批評理論のすべて』(新書館、2017)