カルチャアの雑日記

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4/10金 コミュ力

昨日、電話で話した友達が「漫才組むならあいつ」と言っていた友達と電話で話した。

話がおもろくてびっくりした、ラジオ聞く感じで聞いてられる。単純に話すのがうまいのもあるが、「藤井健太郎」とか「◯年のM-1敗者復活」とか「天竺鼠キングオブコントの寿司のネタ」とか「グリコ森永事件」とか「昔のロッテの応援歌」とかを1ミリも注釈なしに話せるのが楽すぎた。わたしのサークルの某先輩と、絶対話合うと思うぞ。

 

お気付きの方も多いと思うが、私はオタク気質が強い。

まず、固有名詞がめっちゃ好きだ。鳥を見たら「鳥」ではなく種類で言いたいし、道ゆく車のメーカー名と車種を今もわりと言える。

次に、コンプリート欲が強い。小学生の頃に重松清の本を一冊もらったらその後出ている分は全部読んだし、ベイスターズの選手の応援歌集を読み込んで全員歌えるようにしていた。今は首都圏のJR、地下鉄沿線すべての駅を歩こうとしている。

 

しかし、このような特徴が当てはまるのが著しく小学校時代と大学時代に偏っている。なぜ?

 

中学時代と高校時代のことを振り返ってみる。

私は中学、高校と、部活動というかなりの大きな集団で部長を務めた。自分のコミュニケーション能力、絶対そこで鍛え上げられたのだと思う。

 

コミュニケーションで重視されるのは「相手に伝わる言葉で話すこと」だ。

例えば、このブログの冒頭、「藤井健太郎」「◯年のM-1敗者復活」「天竺鼠キングオブコントの寿司ネタ」「グリコ森永事件」「昔のロッテの応援歌」

これ全部分かった人いる?(いたら握手)

私がもし今、これらのことが全く分からない人と話すとしたら、多分、

「①この話を通じない人にはそもそも話さない」

「②相手に通じるように説明しながら話す」

のどっちかしかないと思う。

そこで「③通じる人と同じ話し方で、通じない人にも話す」をやったら、え、グリコ森永事件ってまず何?と相手に思われ、会話が成り立たなくなる気がする

「②」なら、「藤井健太郎、あ、テレビのディレクターの人が…」というように説明して話せば伝わる

 

私は中高での集団において、主に「②」のしゃべりかたをずっとやってきた。自分が「③」しかできなければ部長は成り立たないと思ったので(でも、もし相手が「③」の話し方しかできなくても、それに対応できる力もないとダメな気がする)

 

そこで気付いたことがある。

②(コミュ力高い話し方)=抽象化じゃない?

例1・藤井健太郎(具体)→水曜日のダウンタウンのディレクターの人→番組ディレクターの人(抽象)

例2・天竺鼠キングオブコントの寿司のネタ(具体)→天竺鼠っていう芸人のキングオブコントでやってたネタ→ある芸人がコントの大会でやってたネタ(抽象)

 

つまり、具体的な固有名詞は、抽象化(②の作業)を通さないと相手に伝えるのがむずい。

固有名詞は近い人間同士のコミュニケーションは円滑にするが、遠いところにいる人間同士のコミュニケーションには邪魔な存在だ。「いかに抽象化できるか」が、人に何かを伝えるときに重要な気がする

 

長々と説明してしまったが、何が言いたいかというと、「私は中高の部活でコミュ力を発揮する中で、固有名詞離れした」と思う。

 

就活などでコミュ力コミュ力言われることが多いが、自分が大学で勉強してきたことは、どちらかというと「強い固有名詞を自分の中にたくさんストックしておくこと」だったと思う。

好きな教授も言っていたが、固有名詞でこの人、とかこの作品、とか言えるものを持っておくことが自分の心の支えになる気がする

ということで、私は大学で今一度、固有名詞を覚える(オタク気質を高める)期間に戻ったのである。

 

コミュニケーション能力って「雑談とかできるか」とか「ユーモアあるか」とかそういうのもあると思うが、「固有名詞を相手に合わせていかに抽象化できるか」という要素はかなり強いんじゃなかろうか。

まぁ逆に「この前、鈴木がさ…」と鈴木のことを全然知らない人に話して「誰だよ!」と面白くなるパターンもあるけどね。そこに笑いが発生するのも、「本来抽象化して話さないといけないのに、固有名詞のまま話してる」からだと思うし

 

私は分かりやすく話すのはそこそこ得意だが、「皆が分かりやすく読める本」や「皆が分かりやすく聞ける話」って、実は抽象化されてるから、抽象化する人の能力が低かったら中身は全然違うものに変えられてるかもよ、ってめっちゃ懐疑的に思ってますね

 

昨日のブログで、自分で好きな作家を固有名詞で話しまくるスタンスをあえて取りながら、「自分は伝えたくて書いているのか、伝わらなくて良いと思って書いてるのか?」とすごく思った

答え→どっちのパターンの時もある

ただ、自分の中で、守っておきたい大事な固有名詞はたくさんある。だから、それは、人に伝わらなくてもいいかもな、と思ってます。おわり!

 

【2020/4/10に読んだ本】

早稲田文学増刊号『「笑い」はどこから来るのか?』(筑摩書房、2019年)

アンソロジーの価値がある、すごく面白い本だった、皆言っていることが違うのが良いという意味。おととい読んだ『メディアは誰のものか』では割と皆一貫して「ジャーナリズム徹底しろ」と言っていたのに対して、笑いに関してはこれだけ意見があるのか、と驚くと同時に、複数人と議論をかわすように、自分の頭を使って考えながら読めて、私はこっちの方が好きだ。

ナイツの塙が「馬鹿にされてた芸人の地位が上がってきた」と言っていたと思ったら、読み進めていくと別の人が「紳助がヘキサゴンでテレビの地位を下げて大衆化し、M-1で芸人の地位を上げた」と分析していて、繋がる。

YouTuberの企画を考える仕事があることや、闇営業の「闇」に反社って意味が入ってないことなど、普通に知らなかったことも多かった。金属バットの炎上のところは、読んでいて「表現の不自由展、みたく、文脈知らないで切り取って批判する人」と「そもそもの構造自体を批判する人」がいるんだろうなと思った。

 

しかし、自分の周りのお笑い好き、揃いも揃って「明るい葬式」の話をする。ドリフやらインパルスやら千原兄弟やら、確かにコントで色々見たことある。志村けんさんの葬儀、明るいと良いな。