カルチャアの雑日記

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4/14火 サブカル

DSのどうぶつの森にハマっている。今日、新しい住民としてアヒルのまりもが引っ越してきた。

薄々気づいていたが、住民に鳥が多すぎる。現在、村の住民は8人いるが、そのうちの6人が鳥だ。

内訳は、アヒル1、ヒヨコ1、ツバメ1、ペンギン3。

鳥が多い村、愉快なので好き

 

先週まで普通にバイトに行っていたが、今はやっぱりあんまり外出たくないなと思っていたら、父親に「金やるから外出るな」と言われた。ありがたい……

金くれるならそりゃあ文句なしに家にいるな、ということを実感している

 

そういえば、昨日は触れなかったけど、プロフィール帳で一か所気になるところがあった。

中2の時の紙の「自分をひとことで表すと?」の欄に「サブカル」と書いてあった。

 

ちょうどサブカル女子って言葉が流行った時期だ。

キュウソネコカミの曲「サブカル女子」によれば、あの頃(2010年代前半)のサブカル像は「必死こいてバイトして東南アジアやインド行く」ような「黒髪ボブヘアだてメガネ」の、ヴィレヴァン、一眼レフ、邦楽ロック、B級映画、パン、お笑い好きみたいな奴だ。

確か2chのまとめが何かを見て歌詞を作ったらしい。結構あるある、と共感できる

同時に、メジャーなバンドだったら今やちょっと叩かれてもおかしくなさそうな歌詞なので、キュウソネコカミ知名度が窺える。

 

だてメガネではなかったが、中2の頃ヴィレヴァン、邦楽ロック、お笑い好きだったので、確かに自分に当てはまってそうだ。

私がサブカルを自覚したのは、中学の頃に通っていた塾でのことだ。クリスマスの時期に、塾で仲の良かった友達とクリスマスにカードを交換した。

その表紙が「鎌倉大仏の周りを小さいサンタが沢山取り巻いている」柄だった。

私はその柄を友達にリクエストしていたので「ありがと〜めっちゃ可愛い〜!」と言っていたら、近くで見ていた塾の先生に「はしもとってサブカルっぽいよね」と言われた。

確かに、ヴィレヴァンで売ってそうなので分かる

 

でも今、サブカルという言葉の意味が変わりつつあるんじゃないかと感じている。

 

Googleで「サブカル女子」と検索すると、上に挙げたような、元々の意味でのそれっぽい人たちの画像が出てくる。

しかし、インスタグラムで「サブカル女子」と検索すると、全く違う結果に衝撃を受ける。

それはサブカルではなくてメンヘラじゃない!?という兎メイクをした女性ばっかり出てくるのだ

2010年代後半くらい、というかインスタブームと共に、サブカル女子の意味の捉えられ方が変わっているんじゃなかろうか。これは研究しがいがありそう

 

サブカル」なり「メンヘラ」なり、そういう傾向がある人に対して名前をつけがちだ。

自分の中で、そういう風に人をカテゴライズしたいという欲求と、暴力的にカテゴライズしてしまうことを拒む欲求が、常にせめぎ合っている

 

やっぱり無限にいる世の中の人たちを自分で「編集」するのは楽しい。自分の頭の中で、サブカルっぽい人や量産型大学生っぽい人や姫っぽい人に分けることは、どうしても面白い

ただ、このカテゴライズが「それ以外の普通の人たちから見たもの」であることは気をつけないといけないと思う

一人の人間は無限の要素から成り立っているので、そのほんの一部だけを切り取って一つの袋に入れてしまうのはどうしても抵抗がある。

袋に入れる側の人間と入れられる側の人間の不均衡ができてしまうのは、よろしくないよな

 

その辺に気を付けてれば、別にサブカルやらメンヘラやら言っても大丈夫な気がする。「これが世界の常識だ!」となってしまうことに問題があると思うので

すぐ真面目な話にすり替えるんじゃあないよ全く…

 

ちなみに中学の時の自分は「サブカル女子」という袋の中に自分から喜んで入って行っていたと思う。自分からカテゴライズの枠の中に入りたがることもあるよな

今は何の袋にも入りたくないので、毎日違うジャンルの話をして他人のカテゴライズ欲を撹乱させるのに必死だ。真面目な話した後にどエロい話してやろうかな!?とかいつも思っている。早速「こじらせ」とかの袋に入れられそうだ

 

ブログを書き始めて今日で2週間が経った。5日目、6日目くらいはしんどかったが、続ければ毎日書くことにも慣れてくる。習慣化って大事だな!

この感じでエントリーシートも書きたいけど、それはまた別物なので、難しい。

 

【2020/4/14に読んだ本】

多和田葉子『エクソフォニー 母語の外に出る旅』(岩波現代文庫、2012年)

去年のケンブリッジ大学での留学プログラムのテーマがエクソフォニーだった。当時もかなり勉強したし、他の授業でも本当によく出てくるが、結局出典をちゃんと読んでいなかったのでこの機会に読んだ。

家にいながら世界旅行気分だ。文の「長さも短さも表現手段の一つ」とか、自分が実際に翻訳した時のことをすごく思い出した。自分が関西に行くのが好きなのも、ある意味、標準語の外の世界に出ることへの楽しさから来ていると言える。

「どこにも居場所がないのではなく、どこへ行っても深く眠れる厚いまぶたと、いろいろな味の分かる舌と、どこへ行っても焦点をあわせることのできる複眼を持つことの方が(あらかじめ用意されている共同体にいるよりも)大切ではないか。」自分の街歩きや鉄道旅の思想は、これに似ている気がする。

どの国の人とも言い難い、どんな袋にも入れづらい人の言葉は、自由で、読んでいてすごく良い気持ちになるな