カルチャアの雑日記

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人生で最も大切なもの:渇望

皆さん、渇望していますか。

 

世の中には色々な欲望があると思う。てか、自分の周りの人たちが渇望しているものが何なのかって結構気になる。例えば「恋人が欲しい」とか「痩せて可愛くなりたい」とか「面白いと思われたい」とか。皆それぞれ色んな欲望を抱えていると思うけど、そう思ってしまうのは現状では満たされていないからだよね。

 

今年の秋くらいに自分がお世話になっている教授の話を聞く機会があったのですが、その教授が「何かこうしたいとか、現状を変えたいとかいう渇望や飢えがないと、本を読んだり文章を書いたりする気にならない」という話をしていたことが、心のどこかにずっと引っかかっていた。

 

なんか、2020年の自分は渇望感がものすごく少なかった気がした。

お金は来年から社会人になるので今貯めるつもりはなく、遊びに行こうとしてもコロナであまり外に出る気はせず、人間関係もそこそこ良好、むしろ今後の生活に向けて人付き合いを減らしていく方向に動いていた。

一番驚いたのが、大学で散々触れてきた文学への渇望感が一旦失せかけたことだ。アルバイトやオンラインの勉強会で規則的に人と会話でき、家ではYouTubeAmazonプライムで好きな芸人の動画を見る生活。淡白で、あまりストレスもなかった。同時に「何かやりたい」とか「新しくこれを始めたい」とかいう欲求もなくなり、自分の今の生活に文学的な要素って一つもないんじゃないか、というところまで来ていた。

 

来年から始まる安定した生活も、渇望感不足の要因だった。社会人になったら、今のアルバイト生活では考えられない額の収入が毎月入ってくる。私の就職活動では、最終的に「自分のやりたいこと」と労働を両立できるよう、あまり自分にとって大変すぎない仕事を選んだつもりだ。すると、規則正しい生活と安定した収入がとりあえず確保できる。また、安定して付き合っている彼氏もいるので、このままうまく行けば将来的に一人になる不安もない。

すると「自分のやりたいこと」の方が消滅しかけた。経済的にも精神的にも安定した生活の中で、そこそこ楽しく生きられる。豊かな生活。ていねいな暮らし。日々の健康。そこに文学の発生する余地はない。別にこのまま安定して幸せな生活を送れば何もしなくても良いのでは?と。

 

もとはと言えば、就職活動の頃から自分には「こうしたい」という明確な意思はやっぱりなかった。とりあえず目の前の就活を片付けるべく、やりたい仕事を仮設定して(当時は本当に一生懸命に!)励んではいたものの、今エントリーシートとか見返したら、最終的に自分の決めた就職先以外は気持ち悪いくらい嘘未来設計しか書いていなかった。

その時は必死に色んなエントリーシートに会社に入ってからやりたいこともどきを書いていたが、こんな感じの自分がメディアの裏方に回ったり、夜遅くまで他人と作業したり、好きじゃないものを売ったり、店頭に立ったりしたい訳なかったと思う。いや、それはそれで楽しいのかもしれないけど、中学高校の部活動と同じように、なんか世の中に溢れるものや概念の中で、自分の思想形成に直接関係のなさそうなことをするのが嫌だなと思ってしまった。「そこそこ楽しいけど、別にその仕事である必然性はないよな」と。

 

いや、就職活動をちゃんとやって行きたい企業に行く人が一番正しいと思うので、結果だけ見れば別に「理想の企業に就活できた」点で全く問題はないんだけど。そこはちゃんと適当じゃなくてめっちゃ準備して努力して臨んだし。

でも、こんなアンチソーシャル的なスタンスを持ちながら就活よく頑張ったと思う。自分の中で、社会的で協調性のある人間とわがままで反骨精神の強い人間が一生戦っている。私がアメリカ人だったらトランプとバイデンどっちにも投票してると思う。この例えは全然ピンと来ない。

 

しかし、流石に就活が終わってから、淡々とした生活を送ってきた期間が長すぎた。三ヶ月も四ヶ月もYouTubeとアマプラ生活は無理よ。三ヶ月も四ヶ月も無理なら、この先一生、仕事以外の時間にこれが続くことに耐えられるか?

 

そう思って大喜利を始めた。ここからは大喜利の話をします。

 

久しぶりに沸いた欲望が「大喜利やりたい」だったのは、多分お笑いを見まくっていたからだと思う。とりあえず人間的な感情を維持するべく、M-1なりカラフルなりシャバダバの空になり座王なり(それにしては多くない?)お笑い動画を摂取しているうちに、気が付いたら「面白いことを自分でも思い付きたいな」と思うようになっていた。これは自然な流れだ。

 

兼ねてから、自分の中高大のおもろい友達を集めて勝手に戦わせる大喜利をやったらちょっと面白そうだなと思っていた。しかし、素人の大喜利には欠点がある。それは全然面白くないことだ。

ここマーカー引いてほしい。素人の大喜利は全然面白くない。素人というのは、こんなブログを書いている俺や、こんな素人の書いたブログを読んでいるお前のことだ。

 

だからやり方に困っていた。例えば、Twitter大喜利をやると、あまり知らない人からリプライが来た時や面白くなかった時にリアクションに困る。LINEでやると通知うるさそうだし、ずっとグループが動いているのはだるい。何より(お前もそんな面白くないぞ!と思われて然るべきではあるんですが)笑いのレベルをある程度は保ちたい。

 

そこで、slackというアプリを導入した画期的な大喜利システムを構築した。まだ著作権申請をしていないので具体的にお伝えすることはできないが、これにより質の良い大喜利のできる体制が何とか整った。

そして、数日前から始めた大喜利はそこそこ盛況している。自分が今まで信頼してきた人たちが皆信頼に値するくらいちゃんと面白くて良かった。

 

毎日面白いことを考えていたら、そういえば自分が仕事と両立してまで「やりたいこと」として設定していたのは、大学でも続けていた創作だったな〜と思い出した。ものすごく久しぶりにパソコン上の小説の端くれみたいなメモを見返すと、そこから話を付け足したくなった。なんか文章を書くのが楽しかった。一人で面白い物語や文章を捏造することは、大喜利で架空の設定の中で無意味な言葉を考えるのと同様に変態的行為である。

 

ということで、ちゃんと文学への渇望感を取り戻すことができた。良かったー。だって最近安定志向強すぎて、インスタグラムで節約レシピめちゃくちゃ保存してたんだよね。無印男子のアカウント遡ってたし。暮らしのことなんて一生考え続けるんだから、今こんなに時間のある期間にそれよりも大喜利や創作をしろよ!と、クリエイティブなことへの飢えを感じられるようになって本当に良かったです。別にどっちが良いとか悪いとかないけど。安定した日々の退屈と、鬱屈とした日々の生の実感というだけの違いです。

 

最近ブログ更新できるようになったのも、渇望が生まれたからだろうな。皆さんが渇望していることは何ですか?「動く」って相当面倒くさいことだと思うので、その動機として満たされない気持ちが大きいのって大事だなと思いました。つまり、満たされてない時の方がブログの更新度高めです!

 

私が「自分の中で悶々としていた感情を言語化したい」という渇望が湧いてきたのは、お笑いを見まくっていたおかげだ。サンキューお笑い、座王IPPONグランプリ笑い飯の西田、蛙亭の岩倉、ロングコートダディの堂前。私は芸人にはならないけど、おもしろ女には絶対になりたい。