カルチャアの雑日記

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3月13日 個人的な体験

会社のパソコンから唯一気兼ねなく閲覧できる情報コンテンツサイトこと日経電子版を開いていたら(仕事してるように見えるしね)、トップページの中に「エブエブ」の文字を見つけた。先週見たばかりの映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」が、アカデミー賞で最多7部門を受賞したらしい。

この映画の宣伝文句の一つに「開眼せよ!」とある通り、英語版のポスターなんか見ても宗教映画的ヤバさを感じる。曲と映像によるヒーリング効果を何回か浴びせられて堪らなかった。テーマとしては「あり得たかもしれない複数の世界線を全て抱きしめて今を肯定しよう」って結構自分にとっては当たり前の考え方だけど、それが分かった上でも本当に面白かったのは、自分の半径数メートルくらいで起きている出来事が自分の情緒をかき乱すものの全部だよなと改めて思えたからだ。極端に貧乏とか大変な生まれとかいう訳でなく、本当に普通の人生を生きている人たちの話だったのも好きだったポイント、半地下に住む人たちや笑う発作持ちの人間を観察するのもまた違って面白いけど、ぶっ飛んだマルチバースはあくまでも私たちの生活の延長にあるって思えた。

タイトルの「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」は、主人公の営むコインランドリーと掛けていると睨んでいる。全てのものを同時に洗うのが洗濯機の役割だから。もっと言えば、every wear(where)を洗濯(選択)──それは流石にギャグすぎる?自分が翻訳する立場なら意識する。

次に電子版を更新した時には、日経平均はマイナス400円台から300円台にまで回復していた。同時にトップページに現われたのは大江健三郎の訃報だった。つい一ヶ月前に友達に大江健三郎ってまだ生きてる?と聞かれて、ギリギリ生きてるよと答えた時、本当にギリギリだったのだ。大学時代の演習のテーマが大江健三郎の世代の文学だった割に、大江健三郎の長編は難しすぎて、結局在学中は一度も手が付けられなかった。代わりに比較的読みやすい岩波文庫の短編集『大江健三郎自薦短篇』と新書の『新しい文学のために』は何度か読んでいる。後者で印象に残っている箇所を引用しよう。

「僕はひとつの作品を、年齢をかさねるにつれて幾度も読みかえすことをすすめるが、(略)ある年齢ごとに、自分をもっとも強く動かすレヴェルが変ってゆくことがわかるからである。しかも年齢を加えるたびに、それらのレヴェルがかさねられ、統合されて、より全体的な読み方ができるようになってゆくからである。しかも若い時にあじわった生きいきした感銘は、その際の読み方のレヴェルの記憶とともに、新しい読み方のレヴェルの下に埋没することはなく、懐かしい光を発しつづけるものだからである。」(大江健三郎『新しい文学のために』より)

え、じゃあ私が今エブエブを見て感動したレヴェルと、主人公のおばさんと同い年くらいになった頃に見て感動するレヴェルと、死ぬ間際に見て感動するレヴェルはまた別ってコト!?考えてみればそれはそう。あり得たかもしれない全ての可能性を抱き締めるには、私はまだ若すぎる。

帰宅してから、昨日録画した佐々木朗希の情熱大陸を見ていたら、津波が起きていなかったら、野球選手になってなかったかもしれないし、分からないですね、みたいなことを佐々木朗希が言っていて、佐々木朗希は今のバースをまだ半分だけ受け入れているような状態で生きているように見えたけど、いつかあり得たかもしれない全ての可能性(震災がなかったらとか、ロッテじゃなくて楽天が交渉権を獲得していたらとか)を抱きしめるのだろうかと思ったり、ただそんなことは余計なお世話で、私はまず、日本で3月3日に公開した映画を3月5日の時点で薦めてくれる友人に出会えるバースに生きていて良かったのだ。

一文が長いのは、昨日ミシェル・ウェルベックの『セロトニン』を読んだことが影響している。精神的にも身体的にも男性器を失った人間は代わりに銃を手にする──高校の頃にTwitterで「男根のメタファー」って流行っていたのが懐かしい。でもいざphallusを手にしても、結局はそれが発射されることはない。主人公が元恋人の息子を狙うこのシーンで、アニメ好きなら「PSYCHO-PASS」1期の、友人のために常守朱が槙島に銃を向けるあの場面を連想するんじゃなかろうか。学生時代にお世話になった文学強強先輩(文学強強剣!があったら強い?)が、彼女が大事な時に銃を撃てないのはそれがphallusであるせいじゃないかと言っていたのを思い出した。抗鬱剤を飲むと性欲が減退するのか、性欲が減退するから鬱になるのか。月曜にエブエブを見て日曜にセロトニンを読んだ一週間は私の感情の振れ幅がえげつなく、また市場も日銀総裁やらパウエルやら雇用統計やらSVBやらでボラティリティがえげつなかった。会社に長いこといるマーケットおじさんが、満月の週は色んなことが起きると言っていたが、それもまた宗教臭いようで、強ち間違っていないのかもしれない。